私の朝はいつも一杯のお茶で始まる。 物心ついた頃から、いつもそうだった。
子供時代は、60年以上も前、イギリスで育った私にとって、紅茶は生活の一部だった。 紅茶がないということは、ありえなかった。 朝食に紅茶、昼食の後に紅茶、そして午後には常に紅茶があった。
私たちを伴って母が友人宅に招かれた時も、サンドイッチやケーキと共に必ず紅茶が出てきた。 母の友人たちがこちらを訪ねてきた時も、同じこと。
まだ少年だった私にとっては、大人達が会話に興じながら紅茶を何杯も飲むのをただ見ているだけで、あまり楽しくはかったのを記憶している。
単なる「生活の一部」だったお茶が、私にとってより積極的に興味を抱く対象となったのは、私が大学を卒業してからのことだ。 当時の私は御多分に漏れず、コーヒーを飲むようになっていた。
コーヒー豆を買う店は決まって、ロンドンのソーホー地区にあるオールド・コンプトン通りの小さな店、「アルジェリアン・コーヒー・ショップ」。 今も同じ場所で同じ家族が経営するその店は、店のたたずまいも1960年代初めのあの頃から、殆ど変わっていない。
「アルジェリアン」では、コーヒーのほかにジャスミン茶や「火薬(ガンパウダー)」と呼ばれる上質の緑茶、それにオレンジの花入りのウーロン茶など、中国茶も何種類か売っていた。
それまで見たこともないお茶の数々に、私の好奇心はいたく刺激された。 そして目に留まった商品を全種類、少しずつ購入したのである。 その時、店の主人が中国茶の淹れ方を教えてくれたのは、幸運だった。
さもなければ、私はこれらのお茶に、イギリス式にミルクと砂糖を加えていたことだろう。
そして、これが私のお茶の世界への旅の始まりだった。 インターネットがなかった当時、調べ物をするのは大変だった。 お茶について書かれている本も少なく、幅広い品揃えを持つお茶の店は、ないも同然だった。
その後、私は世界中を旅するようになり、ゆっくりと、一歩一歩、お茶についての知識と経験を増やして行くようになった。
1960年代は、ビートルズとダライ・ラマのおかげで、東洋の宗教や慣習に対する関心がロンドンでとても高くなった時期だった。 その頃、私も鈴木大拙の『禅と日本文化』という本に出会った。
大拙は人生のほとんどをアメリカで過ごし、ヨーロッパなども訪れた人物である。 英語で著述した大拙は、禅の思想を西洋人に広めるのに中心的な役割を担った功労者だ。
大拙は、禅の思想がいかに日本で生まれ、物質面と精神面ともに生活のあらゆる場面に浸透していったかを説いた。 『禅と日本文化』の中古本を買った私は、日本に対する興味をかきたてられた。
そして、私はその後、さらに世界各地を訪ねるようになるが、どこに行くにも必ずこの本を持ち歩くようになった。 そして、私は大拙が語る人の生き方において、お茶が重要な役割を果たしている事に気がついた。
お茶は何世紀にもわたって、人の社会生活、経済生活、さらには精神生活において、とても重要な役割を果たしてきた。 お茶そのものにとっては、人間が経験してきた以上の驚くべき「旅」をしてきたと言えるだろう。
そもそもは中国南西部の山岳雨林地帯に自生していた木の葉っぱが、やがて水に次いで世界中で二番目によく飲まれる飲料となるのだから。
伝説によると、お茶は5000年前に、伝説の中国皇帝「神農」によって発見された。 中国の薬草学の祖とされる神農は、何百種類もの薬草を味見しては、それぞれの効能を記録していった。
ある日、お茶の木から落ちた葉っぱが、鍋の中で煮えたぎっていたお湯の中に偶然落ちた事から、お茶を飲む習慣が始まったという。
これに類する伝説は、異なる文化圏でも普遍的に存在する。 大昔の人類にとって、薬と食べ物を探す過程で近くに生えている植物を調べてみるというのは、ごく自然な事だったのだろう。
古文書や考古学上の発見によれば、ヨーロッパと中東ではカモミールやペパーミントなどのハーブ茶もお茶に匹敵するほどの古い歴史を持つという。 だが、カモミールやペパーミント、その他の効能に富んだ薬草も、人間の生活における役割の大切さという点では、お茶にはとうてい及ばない。
何故なのだろう?もっとも、この問いに対するどんな答えも、推測の域を出ないに違いない。
だが、仏教が重要な役割を果たした、ということは、まず間違いない。 中国からアジア全域にかけてのお茶の普及は、仏教思想の広がりと密接に関連している。
仏教僧たちがお茶を珍重するようになったのはよく知られるところだが、それは仏典を読んだりお経を唱える際に、お茶を飲めば集中力が高まり意識が覚醒されることに気づいたからである。
ヨーロッパでは、貿易商たちが極東からエキゾチックな積荷を持ち帰るようになると共に、お茶の歴史が始まった。
最初にお茶をヨーロッパに紹介したのはポルトガル商人だった。 高価で、しかも異国情緒溢れるお茶は、すぐにもリスボンの宮廷で流行となった。
17世紀半ばとなると、ポルトガル全土でお茶は大人気となっていた。 やはり東洋貿易を行なっていたオランダでも、エリート層の間でお茶は人気を博し、オランダの近隣諸国にも、お茶は広まっていった。
この時点で、イギリスはお茶消費の後進国だった。 イギリスの文人サミュエル・ピープスの日記に初めて「お茶を飲んだ」という記述が現われるのは、1660年9月25日まで待たねばならない。
友人たちと国際情勢について語り合った彼は、「その後、召使に命じてお茶(中国の飲料)を買いに行かせた。 今まで飲んだことのないものだった」と記している。
ロンドンの富裕層でファッショナブルなエリート層の一員であったピープスの行動は、周囲に大きな影響を与えた。
1662年には、イギリス国王チャールズ2世がポルトガル女王カテリナ・デ・ブラガンサと結婚した。 カテリナが婚礼の祝いの品としてお茶のいっぱい入った茶箪笥を持って輿入れをしたおかげで、チャールズ王もまたお茶を楽しむようになり、お茶は瞬く間にイギリスの富裕な貴族階級の人気の飲み物となった。
だが、イギリスの一般庶民にも手が届くまでお茶の価格が下がったのは、イギリスがインドでお茶の栽培を始めるようになってからだった。 そして19世紀に入り産業革命も後半になって、お茶はようやく国民的な飲み物となった。
工場の経営者たちは、労働者にお茶を飲ませると、より長く働かせることができる上に事故も減ることを発見したからだ。 お茶に砂糖とミルクを加えるという飲み方も、この頃に一般化した。
工場で働き続けるために十分なカロリーを、砂糖が供給したのだ!
意外にも、中国の宮廷でも、お茶にミルクと砂糖を加えて飲まれるようになっていた。 今日でも中国を旅して回ると、実にさまざまなお茶の飲み方に触れることができる。
中には、何千年も前から続いてきた方法もあるという。 例えば、摘みたてのお茶の葉を塩とトウガラシとレモンに漬けて発酵させて飲むお茶がある。
これなどは、まるでキムチではないか!
お茶の淹れ方・飲み方は千差万別だが、私の見たところ、共通項が二つある。
一つ目は、お茶を介して「社交」が生まれる、ということだ。 お茶の準備をし、一緒に飲むという行為は、その場を共有する人の間に一体感を生み出す。
人々は自ずと協力し合うものだ。 お茶を飲むのがほんのわずかな時間であっても、人々は意見の違いや心配事を忘れ、お茶を楽しめる。
二つ目は、ペースの速い世の中にあって、お茶を飲むことはスロー・ペースな行為だという点である。 世界がどれほど加速しても、お茶の世界には何世紀も変わらない、独自のリズム、独自の尺度の時間が流れているのだ。
これら二つの独特の要素の融合こそが、お茶が人生に与えてくれる最大の効用であると思う。 リラックスした雰囲気の中で、ともに何事かを考え体験することで、意見の食い違いや問題は消滅したり、より解決しやすくなる。
お茶をともに飲むことで、経験を共有し、勇気を呼び覚まし、一体感が生まれるのである。 人々は寄り添い、ともに本当の自分に帰れるようになるのだ。
このように考えると、お茶を飲むという行為は、日々複雑になり危険度を増していく世界において、私たちの生活を健やかに導いてくれる、道徳的な羅針盤の役割を果たしてくれる、といえるだろう。
新聞を広げ、あるいはテレビのニュースを見れば、今、私たちが道徳的な危機に晒されていることがわかる。
こういった理由から、私は客人に必ずお茶を勧める。 寒い日には熱いお茶を、暑い日には冷やしたお茶を。 そしてそれは、外界の雑音を閉め出し、私自身が尊重したく思っている「人間にとって大切だと思う価値観」を分かち合うための、招待状でもあるのだ。 |